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生い立ち

町会60周年

七丁目町会の誕生
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現在の赤坂7丁目町会は昭和27年に、現在の赤坂7丁目町会の前身である臺町と表町3丁目が誕生し本年で60周年となり、この記念日を迎えました。そして昭和43年6月18日に、両町会の合併により現在の赤坂7丁目町会が誕生しました。このことは旧町会の住民の総意であり、住居表示制度の改正時、両町会で協議を重ね、合併に達しました。合併には異論がありませんでしたが、半年に及ぶ会議の末、両者の意見がまとまり、新町会として赤坂7丁目町会となったようです。

​変わらない親睦
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もととなった町会は戦前から存在し、長い歴史を持っています。戦前・戦中の町内会でも、現在同様、親睦を主としていました。主な行事は氷川神社の祭礼の世話と、もうひとつは出征兵士のお祝いと留守宅の慰問等のようでした。戦争に突入してからは、町会から隣組単位に分割され、役所の下請け的な業務を行いつつ、生活必需品の配給や消火訓練などを指揮し、組員の生活を支えていたそうです。そして終戦と同時に、隣組は解散させられました。戦後になって、町会の再編を目指す動きが高まり、有志で集まった人を中心に組織作りが進められたそうです。そして昭和27年に町会として再出発をしました。当時は、首都美化一環として道路の清掃をすること、また蝿や蚊の駆除をすることなど衛生環境を整えることが主な事業でした。さらに野生の犬が食べ物を漁ったり、子供に噛みついたりするといった犬害も発生し、赤坂保健所などが懸命に対応していたそうです。当時は苦しい時代ではありましたが、町会役員の先輩方のご尽力によって、港区からモデル地区の指定も受けました。そして、昭和31年には婦人会も結成されました。地域の生活環境を向上させる取り組みや、生け花や茶道といった婦人としての教養を身に着ける講習会などを主な事業として行っていたそうです。昭和32年には発生した臺町大火災のとき、自治会では朝夕の炊き出し、罹災者の見舞い、救助などに尽力し、復興に一役買っていたようです。

​安心・安全な明るい町づくり
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赤坂には数多くの地名がありますが、その一つひとつに土地や故事に沿った命名が、あるそうです。臺町は、赤坂の中でも高台に位置することからその名前が付き、表町3丁目は赤坂の表通りで明治時代に命名されたようです。そういった臺町や表町といった懐かしい町名が消え、さらに町の特徴であった寺院は戦前6カ所あったのが4カ所になり、寺院跡地には高層ビルやマンションが次々と建設されました。町の急激な変化に戸惑い、日照・緑化・風害等を取り上げていたそうです。しかし現在では、会員数は赤坂の中でトップクラスを誇り、交通の便や生活環境の面でも最高水準であり、良き住宅地となっています。その背景には町会の先輩方の努力がありました。町会は、町民や町の住民を訪れる方が、暗くなっても安全に通行できるように路地に数多くん街灯を設置しました。また清掃局と協力して、ゴミの迅速な処理や町の美化に取り組むこと、警察との連携を強化し、防犯連絡所の設置・暴力追放・青少年の非行防止に取り組むこと、さらに消防局と連絡を密にし、災害時への心構え等について会員に対する啓蒙活動など、関係官庁と密接な協力体制を築き、安心・安全な明るい町づくりに尽力しています。

​成長し続ける町会
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そして町会は町づくりの他にも、会員の方に楽しんでもらえるような様々な行事を運営しています。例えば氷川神社大祭は町会の大仕事です。神輿を担ぎながら練り回り、町を賑わしたようです。婦人部は神輿を担ぐ人や世話する人たちのお弁当を作り、町会挙げての一大イベントでした。その他の大きな行事では、夏季子供おさらい会があります。学生や住職を先生として招き、子供たちのために夏休みでも勉強できる環境を作りました。このことは、現代版寺子屋として、テレビで放送されたり、新聞で取り上げられたりしました。長い歴史を持ち、会員の生活に寄り添いながら発展してきた赤坂7丁目町会は、今後も住んでいる人が、一層誇りを持てるような町会へと成長し続けるでしょう。

最後になりましたが、この文章は、当時町会長の飯田様への取材をはじめ、故山本政東町会長の赤坂七丁目町会四十周年記念誌を抜粋し、まとめさせていただきました。

ありがとうございました。

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